エロゲ概論⑤

⑤題名:俺たちに翼はない

ジャンル:ロマンティック・コメディ
制作会社:NAVEL
脚本:王雀孫(オウ・ジャクソン)
制作年:2009年
2ch歴代ベスト:第26位
エロゲ批評空間(中央値/平均値):86/83
エロゲ批評空間ベスト:第32位



◆◆◆

―――てなわけでね、ハイこれ黄金の鷹クン逃げちゃいましたけど、まー、 しみったれた話はこんぐらいにして、カラッと空気換えていきましょーか。

オーケイ、オーライ、オールナイトロング!行くぜ、おまえらみんなたち!奈落の夜はまだまだ始まったばかりだ!主人公は一人じゃない、ひとの数だけドラマがある、キャメラ移せばドラマも変わる。

それじゃあさっそく行ってみよう、ブリンブリンに飛ばしていくからおまえらノーウィング・キッズたちも、振り落とされず付いてこいよ!

◆◆◆



いままでエロゲエロゲと十把一絡げにしてきたが、そこのおおよその意味は「エロシーンのあるノベルゲーム」である。しかし、そろそろこう思うのではないだろうか。つまり、どこがゲームだ?と。

その疑問は正しい。単調にクリックを繰り返し文章を進めるだけの作業を、ゲームをプレイしている、とは思いにくい。しかしエロゲはまぎれもなくゲームだ。音楽があるから、などといった理由ではない。一言で言ってしまおう、最大の要は「選択肢」の存在にある。

エロゲ消費者の絶対数は少ない。マンガやアニメや映画を好む諸兄諸姉に、比すことすらおこがましいレベルで、少ない。そのくせ消費者の嗜好の多様化・細分化は著しい。これは美少女ゲームなどという胡乱な媒体の抱える宿命的なジレンマだ。ではどうするか?現在最も最適化された答は存在する。それはつまり、攻略可能なヒロインを複数搭載する、である。

プレイヤーはクリックを繰り返し物語を進めながら、選択肢を選び続ける。その繰り返しの果てに、特定ヒロインのルートに突入し、彼女と愛を育み、ハッピーエンドを迎える。


しかしここで考えてほしいことがある。気付いてほしいことがある。それは、選ばれなかったヒロインは一体どうなっているのか、という事だ。あるヒロインを選んだ瞬間、基本的に他の全てのヒロインは、彼女たちがそれぞれ持つそれぞれのストーリーもろともに、選ばれたストーリーから排除される。

これは、また後でそのヒロインのルートに入りなおせばいいじゃん!という事にはならない。

あるヒロインを選んだ時点で彼女のストーリーは語られず、その未来は閉ざされ、「ヒロイン」という意味ではその時点で彼女は抹殺されたも同然である。しかも抹殺後も彼女の人生は裏側で続くのだ。これは残虐な悲劇である。もっと極端な言い方をすれば、君があるヒロインのルートに入るとき、

君は、その他のヒロインを大量虐殺していることに他ならない。

どうして自分は彼女を選んだのだろう、という疑問は、どうして彼女たちを選ばなかったのだろう、という問いとコインの裏表だ。



それは意味の殺害。
ヒロインとは、作者が、ある物語と、そこに秘されたテーマを語るために配置した舞台装置、込めた意図の表出のため用意した“意味”だ。物語が複数のストーリーラインで編まれたタペストリーだとするならば、あるストーリーラインだけを抜き出した瞬間、パッケージ全体としての物語は有機的連結を失う、つまり、死亡する。

殺害犯は自分だ。
読者は悉く殺人鬼だ。
全てのプレイヤーはシリアル・キラーだ。

彼女たちの亡骸を踏みつけ、乱立した数多の墓標の上にヒロインとの恋は立脚している。影が濃ければ光はより強く輝く。ハッピーエンドの背景は荒涼とした墓地だ。その事実を忘れた萌え豚はただの豚だ。否、豚どころではない。畜生にも劣る悪鬼羅刹である。

選ばれた要素(=ヒロイン)は、選ばれなかった要素(=サブ・ヒロイン)との対比にこそ意味を与えられた。残された要素に素敵な意味があるとすれば、その意味を捨て去った要素たちもまた、意味の裏面として、物語の本筋の裏側に残り続けるのだろう。あたかもそれは、美麗なタペストリーを支える確固とした裏地であるように。

だからもし、彼女らが偉大かどうかの保証はなくとも、そしてもし、彼女らの退場を誰も意識しなかったとしても、我々(萌え豚)は、彼女らに心をこめて、心から、感謝と訣別の言葉を送らねばならない。



この宿命的なジレンマに対し、先人たちは何の努力もしなかった訳ではない。むしろ、その事に真っ先に気付いたのはやはり彼らだ。報われない彼女らがせめて穏やかでありますように、と五里霧中のなか、苦闘を続けた。マッチポンプにも似た、独善にも程があるその願いは、しかし、ある程度は叶えられた。

複数ストーリーの統合。
その大問題に対し、様々なアプローチが試みられた。その結実の一つが「ループもの」である。

複数ヒロインのルート群をそれぞれ並行的に扱うのではなく、一本化して、扱うテーマもそれに応答した一本軸にしてしまおう!というものである。そのようなSF的構成は、思いがけず実に多彩な実りを見せた。
『世界の果てで愛を歌う少女YU-NO』、『EVER17』『FOREST』『CROSS†CHANNEL』『マブラヴ』『ef-a tale of memories-』『シュタインズ・ゲート

symphonic=rain

などといった名作を数多く生んだ。これは、そもそもオタク的文脈というのは、ガンダム銀河鉄道999などを思い浮かべてもらえば分かりやすいが、戦前〜戦後にかけて海外で勃興したSF小説の末裔だということも、その親和性の証左になるだろう。

あるヒロインのルートに入る、しかし悲劇的な結末を迎えてしまう、その記憶をもったままゲームスタート時の地点に巻き戻されてしまう、刻一刻と迫る(君だけしか知らない)カタストロフを回避すべく主人公=プレイヤーは前世の記憶を頼りに奮闘し、ヒロインを見事救済し、ハッピーエンドを迎える。これがループものの共通項である。

救えず零れたヒロインの救済に成功した時のカタルシスは筆舌に尽くしがたい達成感と幸福感で主人公=プレイヤーを包む。その大団円。これぞループものの醍醐味、複数ストーリーの統合に対する解の一つである。

本作『俺たちに翼はない』もまた同様に、並列ヒロインに対する統合について一考された作品である。現代を生きる若者たちそれぞれのストーリーが意外な形で交わり、最終的に伏線は回収され広げられた物語は収束し奇麗な幕切れを見せる。

特別何かに秀でたわけではないが、なるほど時代は(制作者に対しても消費者に対しても)ここまで成熟していたのか、と示すような作品である。今まで数々のタイトルに触れてきた我々(萌え豚)は、この秀逸なロマンティック・コメディがエンドを迎えた時、感心と歓喜のため息が知らず漏れることだろう。それほどに“よくできた”エンターテイメントだ。

またやはり、本作を語る際には脚本家の作家性に触れない訳にはいかないだろう。
脚本家<王雀孫>は、他に類をみないほど抜群に“愉快な日常”を紡ぎ出す事に優れたライターである。時代性を見抜く眼力、卓抜したキャラ造形、流れるようなキャラ同士の掛け合い、マシンガンのように乱射される抱腹絶倒間違いなしのセリフ回しetcetc……。

そんな彼の唯一と言ってもいい欠点は凄まじいまでの寡作・遅筆ぶりだろう。とにかく書かない。ほんとに書かない。待っても待っても次が出ない。正直本作が発売されると宣伝広報に載ったとき、彼を知る関係者・読者は一様に疑った。信じなかった。だってこの人、前作は2部作ですとか言っといたクセに完結編を一向に書かなかったから(かどうかは知らんが)制作会社つぶれちゃったんだぜ?前作でハンター・ハンターの富樫の遅筆っぷりをネタにしたくせにブーメラン乙、みたいな?

つーかそんなこと言うなら那須きのことかもう絶対に俺たちが生きてる間に魔法使いの夜3部作完結しないよね!DDDもホントに3巻発売されるの!?とか田中ロミオ丸戸史明ラノベに浮気してる暇があるなら(それはそれで大変おいしゅうございますけれども!)次のゲーム書いてよ!とか、確かに2007年あるいは2005年にエロゲはピークを迎えて後は斜陽まっしぐら☆とはいえやっぱり大御所が皆を引っ張っていってくれないとうにゃうにゃ云々。


閑話休題(訳:失礼、興奮しました)。


ここでまた、ループものの話に戻ろうと思う。

確かにループものは停滞していたエロゲ界に革命をもたらした。しかしそれが全き宝玉でありflawless perfectlyであったかと言われれば、否である。

むしろ、それはある一つの重大な忘却あるいは隠蔽を生んだ。それは、「人生は1度きりである」という、子供でも知っている、至極単純で、弱肉強食よりも普遍的な、この世の前提である。

なぜ、こんなシンプルな事実が無視されたのか。それは、エロゲの宿命的ジレンマとも相関する。いや、もっと言ってしまえば、我々(萌え豚)は、美しく艶めく数多の女性の色香の前に狂ってしまっただけなのだ。

あの娘もいいな、この娘もほしい、ああ全く、この世は人生1度じゃ貪り尽くすに広すぎる!

……そんな、愚にもつかない妄言を、数多の大人が寄ってたかって、大人げなく子供のような本気を見せて、叶えてしまったからこそ起きた、夢見たツケのようなものだ。(……そういえば、小説家・北村薫はこんなことを言っていた。小説家が小説を書くのは、人生が一度きりであるという事実に対する反逆である、と。ホントにあの人はいいこと言うなぁ……)

では具体的には何がおこったのか。たとえば昨今大流行を見せた『まどかマギカ』を例にとってみよう。御存知のように、まどマギとは、可愛らしく無知な少女がたった1度の願いと引き換えに身命賭して闘いに明け暮れる仕組みの世界を描いたアニメだ。

ここでは魔法少女となって悲惨な最期を迎える少女を救済するため、ループを繰り返す黒髪少女が登場する。黒髪の彼女の道程は過酷だ。最終的には全てを知った少女は、ただ救済される事を望むのではなく、そのような過酷な運命にあり無価値に命を散らす全ての魔法少女の存在に意味を与えた。

美しくも壮絶な自己犠牲。その根底にある思想は、世は戦場だ、しかし(それが例え凡庸なものであろうと)その生には何らかの意味があってほしい。そのような儚く切ない祈りであった。少なくとも僕はそう読んだ。

では周囲を見渡してみよう。確かにまどマギの反響は大だ。映画も作成され、興行成績は素晴らしく、次々と金字塔を打ち立てているらしい。だが忘れてはならない。本作の味付けは決して万人受けするものではない。いや、あれは万人が受容してはならないものだ。端的に言えば、不健全なものがマジョリティ化してはならないのだ。

凄惨な事実ならニュースを見れば全世界に溢れている。そういった悲惨は、我々のすぐそばに五万と存在し、またこれからも存在するのだろう。その事実を我々は「傑作だ!」と手を叩いて歓迎してもよいものだろうか?答は否であろう。それを肯定する事は、これも極論だが、人という種族の滅亡を肯定するようなものだ。

そう、これは倫理的な問題だ。君はそれを良しとするのか、我々はこれを良しとしてよいのか、良しとするにしてもそれは何故か?―――奇跡、救済、カタルシス、概念。そういった“記号”に脊髄反射して快感しているだけではないのか?そこに、真っ当で健全な倫理は働いているのか?……こんな、指摘されるまでもない“常識”を指摘されねばならぬほど、この業界は病んでいるのであろうか?


もちろん、以下のような反論は当然だろう。つまり、エロゲや美少女ゲームみたいな胡散臭いものを好んでプレイしている奴に、倫理がどうこうなぞ言う資格はない、と。ある面では正論だ。しかしある面では何の反論にもなっていない。

萌え豚とて、社会の中に根付き、社会生活を営んでいる、社会的動物である。そこに倫理がない筈がない。また、オタク界隈では、次々と産生される作品には、溢れんばかりの変態性が内包されているが、むしろちょっと露出しているが、作品世界を社会の中に秩序付ける“倫理”は、そこに確実に存在する。歴史的に傑作と呼ばれるものほど高度な倫理が内在する。というか、我々は確かに萌え豚でHENTAIだが、全く倫理も何の縛りもないただの夢物語や、社会性と遊離しているだけの自慰行為に、何の面白みも覚えないのだ。

作品には作者の思想が現れる。我々はここに社会を見る。現実と照応した光景をみる。そこに反映された己の姿を見る。視線が万華鏡のように交差するスリリングなくして、面白さは生まれない。ましてやそれが、多くの人間に愛され、時の流れの淘汰に耐え、傑作だ、名作だ、などと呼ばれる道理があろう筈もないのである。


翻って、エロゲである。

あるエロゲがある。名作だ。またあるエロゲがある。駄作である。その差は明瞭だ。その差異を生み出すものは何か。何に拠って我々はその線引きを行うのか。

―――それは、作品に反映される、制作陣の姿によってである。
そこには登場人物がある、絵がある、音楽がある、しかしそれ以上に、そこにはストーリーがあり、構成があり、思想があり、矜持がある。行間を読み取り、意味を束ね、意図を受け取り、その果てしない繰り返しによって、今まで盲目的に、あるいは経験的に信じていた“ワタシ”の世界の視座が逆転あるいは破壊され、新たな視座を得て、新たな風景を見る。

エロゲをプレイするとは、そのような一連の知的シーケンスである。

それは高尚でなくともよい、どんなに下らなくどんなに俗であってもよい、ただ、そのような広がりを“ふっ”と感じさせる強制力・喚起力をもったものを、言いかえるなら<物語ることそのものの初源性>を彷彿とさせる作品を、我々は、傑作だ、と、そう呼ぶのである。そう呼ばずにはいられないのである。




また、個人的には、もうひとつの要素が存在するような気がしてならない。
それは意志だ。
物語らずにはいられないという緊密で高圧な内在性の発露。物語ろうとする意志、そして、物語を終わらせる意志だ。

これは意外なほど注目されていないように思える。第1話で圧倒的な世界の広がりを予感させるも、道半ばで急速に減衰し、ついには広げた風呂敷を閉じることなく幕切れてしまう。そのような作品の―――エロゲに限らず、あらゆる創作物の―――なんと多いことか。

物語が意図の存在を彷彿とさせるには、よく配置され、よく収束せねばならない。しかし、これに自覚的で、かつ、実行されるといったなら、それは殆ど奇跡である。比喩でも誇張表現でもない。その完遂は非常な努力を要し、さらに美しく仕上がるには、いっそ偶然頼りでしかないのではないだろうか。創作は取りかかる前は知的行為だが、始まってしまえば労働だ(あるいはパズルだ)。そんなどこかで聞いたような言葉さえ連想される。

だが、これを成しえた物語というのもまた存在する。複数ルートの統合。その完成。美しい図面。そもそもの初めから両立する訳のない構造が、まるでだまし絵のように、しかし我々の心に納得を与え、形をもって立ち現れる。その時にこそ、我々は万雷の拍手で以て、心をこめて、心の底から、心より、もろ手を挙げて、―――傑作だ!と謳い上げるべきであろう。

物語が美しく収束されたかという観点において、『月姫』は傑作だった、『FATE/STAY NIGHT』は失敗作だ。そんな各論はそれこそ枚挙に暇ないほど積み上げられるが、ここでは一旦措いておこう。それよりも、眼前に広がる豊かな土壌に花開いた楽園を、寒々とした荒涼な墓地を、勇気をもって進んでほしい。そして、時には唾棄し、時には歓喜の鬨を上げ、心行くまで堪能してほしい。


―――この世界は戦場だが、君に値する場所でもある。
よき旅を。

俺たちに翼はない (通常版) - PSVita

俺たちに翼はない (通常版) - PSVita